魔法使いの弟子の見習い書記官の「研究手帖」
résumé "L'encre de vérité"
インタビュー「"真実のインク"あるいは"誠実なインク"」覚え書き
<開設 2025/07/28 → 最終更新 2025/08/07>
≪はじめに≫
ここでは、フランスのマンガカルチャー誌に掲載されたインタビューを、やや乱暴に意訳したものをまとめています。学生時代の外国語の成績はほぼ赤点で、ただただ苦悶した記憶しかないのに、無謀にもこのインタビューを原語で読むためにフランス語の辞書を買い込みました。おんぼろなイカダで、ちょっとだけ上等な手桶を頼りに大海原に漕ぎ出したようなもの。ただただ必死に単語の意味を辞書から汲み上げ、それらをどうにか日本語の文章として理解できるように並べ直していきました。当然ながら、翻訳としてはまったく正確なものではありません。と、あらかじめお断りしておく事といたします。それでも、このインタビューが描きだそうとしたヴィジョンのようなものが、なんとかおぼろげに読み取れていればよいのですが。
初音むつな
(魔法使いの弟子の見習い書記官)
□ Paragraphe01:
【Q:デビュー作「ぱだん ぱだん」のなりたちは?】
・(編集部からの)指示はひとつだけ。
・全部で8~9ページのお話を届けるように。あとはまったくの白紙だった。
・そのリズムがお気に入りだった、エディット・ピアフの歌(シャンソン)を織り込む事にした。
・「ぱだん ぱだん」が心臓の鼓動が生み出す音だと知ったのは、(描きはじめた)後の事だった。
1段落目は、デビュー作「ぱだん ぱだん」にまつわるお話。8ページとか9ページだけが決まっていて、あとはお任せだった、といった事をおっしゃっているのはちょっと目新しい感じですね。そして、フランスの雑誌のインタビューの枕としては、これはおそらく最も適切なネタ。「デビュー作、実はフランスと関係があるんですよ!」という事なわけで、よく練られた質問構成です。
(参考:Edith Piaf - Padam, padam)
▲ to contents
□ Paragraphe02:
【Q:デビューして、これで漫画家として稼いでいけると思った?】
・業界で働き続けられる自信はなかった。
・でも、生活費を稼ぐ必要があったので、絵描きとしてやっていけるように願っていた。
2段落目は、デビューして、これで絵を描いて稼いでいけるようになったと思った?という問い掛け。これがフランスのお国柄なのか、日本だと聞きにくそうな事を直球で聞いてきますね(^^;)
▲ to contents
□ Paragraphe03:
【Q:子供の頃に読んだもので、自分を漫画家の道に引っ張り込んだ作品はある?】
・兄が定期購読していた学年誌には、たくさんの漫画が載っていた。
・手塚治虫や藤子不二雄は、そこで知った。
・しかしおそらく、特定の作品が自分に漫画を描く気にさせたわけではない。
・自分の好みが形成されていく8歳か9歳の頃には、貸本屋を自転車で巡った。そこで借りてきた雑誌で、たくさんの漫画に出会った。
3段落目は、子供の頃の読書遍歴。どんなものを読み、そしてそれは作品に影響を与えているか?というのは、確かに気になるところ。お兄さんは5歳年上との事ですので、定期購読で届いていた「小学〇年生」で、5歳ばかり上の年代の作品に触れていらしたわけですね。年次を追ってみると、1962年の「小学五年生」あたりが該当するように思われますが(この年、先生は幼稚園の年長さんで、お兄さんはたぶん小学5年生)、国立国会図書館デジタルコレクションをちらりと確認してみると、藤子作品は見あたらないものの、手塚先生はそこで、インカの秘宝を巡るアマゾンの野生児の冒険譚「ボンゴ」を連載されていました(秘境冒険もの!)。
また、インタビューではその頃の高知にはたくさんの貸本屋さんがあったという事がわかります。小学3~4年生ぐらいの児童が自転車で回れる範囲なんて、たかがしれていると思うのですが、そこにそんなにたくさんの貸本屋が? というわけでそんな高知の貸本屋事情がまとめられた「月刊 土佐」第19号(1985年8月発行)を紐解きますと、昭和32年(1957年)には何と高知市内だけで150軒もの貸本屋さんがあったそう。その昭和30年代前半をピークにして、特集記事の載った昭和60年(1985年)には14軒を数えるばかりに減ってしまっていたようですが、少年時代の先生が自転車を走らせていた昭和40年頃には、確かにまだまだたくさんのお店が残っていたはずですね。昭和60年時点で健在だった14軒の中には、先生の昔語りに時折登場する天満宮にほど近い、梅ノ辻や百石町のお店も3軒ばかり含まれていました。きっと、そのあたりの貸本屋さんは先生のテリトリー。小銭を握りしめ、期待に胸を高鳴らせて、足繁く通われたのだろうなと想像する次第です。
(参考:ひまわり乳業株式会社/今日のにっこりひまわり No.6443「貸本屋さん」)
▲ to contents
□ Paragraphe04:
【Q:初期の短編「心霊術」などは"漫画"と"イラスト"の間に位置する作品のよう。あなたの手法は「劇画」のそれに近いものか?】
・キャリアのはじめの頃は、限られたページ数しか自由にならなかった。
・長編に取り組める可能性はなかったので、短編でも目立つためのやり方を見つけるしかなかった。
・例えば「幻想文学」のような自分好みの作品を猛烈に勉強して、ありとあらゆる種類の技法の経験を積んだ。
・型通りの「漫画」の様式を拒絶していたわけではない。
・現実にはうまくいっていなかったかもしれないが、古典的な表現技法で物語を形づくっていたつもりだった。
4段落目はなかなか難しい問題で、あなたの作品は「イラストとマンガの間にある何か」に見えるけれど、どんな風にこれが形成されたのか?というもの。で、その例として「心霊術」が取り上げられているんですが、インタビュアー氏によると単行本「人魚變生」に収録されているような話になっていて、単なる勘違いなのか、別の作品を「心霊術」だと思ってらっしゃるのか。。。そのあたりがちょっと引っかかってしまったり。まあそんな事をいちいち気にしても仕方ないんですが、「心霊術」が収録されているのは、もちろん「BAMBOO HOUSE」の方ですね(^^;)で、4段落目ではいろいろ話されているわけですが、途中に"litterature fantastique"(幻想文学)のお話も。お好きだったそのあたりの手法を取り入れている。。。とおっしゃっていますね。古の後援会誌「えけれしゃ」ではブラックウッドとアーサー・マッケンの名が挙がっていましたが、今回はさらっと流されていて、お好きな作家や作品についての深掘りはされなかったのが、ちょっとだけ残念でした。
▲ to contents
□ Paragraphe05:
【Q:いまやファンタジーイラストの第一人者とみなされているが、そのジャンルはあなたのDNAに刻まれていたものか?】
・若いころ西洋のファンタジーに魅了された。
・絵画だけでなく、音楽の中のそうした表現によっても。
・当時の日本では、そのジャンルにはごくわずかの画家しか見つけられなかった。
・輸入書コーナーのある書店で、時々(海外の作家のそうした作品を)探し出す事ができたが、選択の余地は限られていた。
・なんてわずかな手がかりしかなかっただろう。
・見出したわずかなものを、手当たり次第に、手探りで模倣しようとした。
・一方、多くのアルバムがファンタジーを想起させるイラストで飾られていたプログレッシブロックが、私は大好きだった。
・振り返ってみると、自分の美的世界は、そうしたイメージたちを吸収して身についたものだと思う。
5段落目は、ほんとうは1980年代の日本でのTRPG界隈の状況についての質問。でも、先生の回答はちょっとズレていて、ほとんど手掛かりがなかったその頃、何をお手本にファンタジー系のイラストを描いたか、というお話をされています。日常的に西洋ファンタジー風の絵が身近に存在する2020年代の日本にいると、もはやそうではなかった世界をうまく思い出せませんが、インタビューからは、当時ほんとうに苦労されていた様子がうかがえますね。
▲ to contents
□ Paragraphe06:
【Q:どのジャケットに特に惹きつけられた?】
・ちょっとびっくりするほどたくさんあるよ!
・ロジャー・ディーンの頃のイエス、グリフォン、カンザス…
・子供の頃はなかなかレコードを買えなかったから、お店に行ってもジャケットをじっと見ているしかなかった。
・そのレコード店で過ごした時間が、自分の感性の形成にきっと影響している。
・音楽で表現されたファンタジー世界の完璧な例は、マンダラ・バンドの「The Eye of Wendor」だと思う。
・この音の世界から、私は「ファリスの聖女」の着想を得た。
6段落目では、5段落目のお話から派生して、どんなプログレのアルバムジャケットから影響を受けたのか?というもので、具体例がいくつか登場。特に「The Eye of Wendor」は、ドラゴンコミックス版「ファリスの聖女」第1巻のあとがきでも詳細に解説されているタイトルですね。作品の深層に響く音。バグパイプ鳴るファンタジーの森へと足を踏み入れんとする方は、ぜひご体験を。
(参考:Mandalaband-The Eye of the Wendor)
▲ to contents
□ Paragraphe07:
【Q:ロバート・E・ハワードのファンタジー小説のイラストを手掛けた武部本一郎や柳柊二に影響を受けた?】
・彼らの仕事はよく知っている。とりわけ、早川書房のそれで。
・しかし、私(の画風)には影響を与えていないと思う。
7段落目は短め。インタビュアー氏の「このあたりの人の作品に影響を受けてるのでは?」という問い掛けに、「よく知っているけれど、影響はないと思う」という回答。「違う」という明確な否定からわかる事もあるので、これはよい仕事ですね。ちなみに途中に出てきた"la mansion d'edition"って何だろう??とやや悩みましたが、後に入っている"Hayakawa"で解決。"書房"でした。…直訳すぎでは?? これ、あっちの人にちゃんと伝わるんですかね? なお、インタビューアー氏の念頭に置かれていたのは、おそらくハワードの「コナン」シリーズ。武部本一郎はハヤカワ文庫版で、柳柊二は創元推理文庫版で、それぞれ装画・挿絵を描いていました。
▲ to contents
□ Paragraphe08:
【Q:様々なタイプの作品を発表した80年代、あなたはどんな状況だった?】
・80年代の出版界(漫画業界)は、ある種の自由さの中にあった。
・私たちは、たくさんの作品を発表する事ができた。
・漫画家の中には、最初から漫画を描くことを目的としていたプロの同業者だけでなく、もともとはグラフィックデザイナーやミュージシャンだった人などもいて、その多様なプロフィールが一種の"流れ"を作り出していた。
・業界の中では実験的なことが許容されていて、(そうした作品も)普通に出版されていた。
・私のキャリアの最初の10年間を一緒に歩んだ編集プロダクションのオーナーには、とりわけそういう傾向があった。
・「ラストコンチネント」を描けたのも、単行本「人魚變生」がまとまったのも、彼のおかげだった。
・「百花庭園の悲劇」は、アーサーラッカムの挿絵画集を出版するような新書館の少女漫画誌「グレープフルーツ」に連載した。
・雑誌に載るほかのすべての作品の中で、この連載はおそらく少し浮いていた。
・しかし、出版社は全面的に受け入れてくれて、やりたいようにやらせてくれた。
・まだ自分のスタイルを見つけ出せていなかったこの時期に、私はあらゆる種類のやり方をできるだけテストして、自分の芸術的な構想を自由に展開させる事ができた。
・(デビュー前の)まだ編集部に持ち込みをしていた頃、「二番目の高橋葉介は必要ない」と言われた。
・実際、私の作風は彼のものにとても似ていた。
・自分独自の作風を手に入れるために、私は結果としてあらゆる事を試す実験に身を投じる事になった。
・いまだに彼(高橋葉介)の仕事には感嘆し続けている。同じように、諸星大二郎にも。
8段落目は少し長めのもの。80年代はじめの頃の業界の状況(明示されていないけれど、これはつまりニューウェーブの話ですよね)が、先生の目線で語られていて、割と目新しい雰囲気です。編集プロダクションのオーナーは、スタジオIWAOの岩尾収蔵氏。日本エディターズ発行のクロスワード誌などを拝見する限り、2025年現在もまだまだお元気なようです。お話は途中からぐっと息が詰まる展開になって、「そうか、そうだったのか…」と、あえぎながら辞書をめくる事に。一応記録としては、「ZOO」Vol.4(1980)の座談会に「マンガ少年」編集部から言われた事として、もともとの話題が出てきます。そして、このある種の呪いの言葉は、「文藝別冊 総特集 高橋葉介」(2013)への献辞(「高橋葉介風」という評価を払拭出来ないでおります。)へと結実するわけですが、今回のインタビューはその間を埋める貴重なもの。読めてよかった。それにしても、葛藤と実験の日々だった先生は大変だったけれど、読者の自分にとってはその表現の流転ぶりこそが魅力・・・というところがあったりして。そのあたり、これを読んだ後の自分の心の落としどころが難しいですねえ(--;)
▲ to contents
□ Paragraphe09:
【Q:「紅色魔術探偵団」は最初の一般受けしたヒット作。人々を魅了する登場人物と、わかりやすいポップな表現。あなたはこれを意図して描いたのか?】
・「紅色魔術探偵団」は、おもしろくて、とびきり普通の作品として構想した。
・(この作品では)いくつもの手掛かりから背後に隠されたメッセージを読み解くような必要はない。
・読者には、楽しい時間だと思って欲しかった。
・物語はたいして複雑なものではなく、何よりもまず登場人物を目立たせるためにあった。
9段落目は「紅色魔術探偵団」について。「読者に楽しい時間を過ごして欲しかった」といった事を語っていらして、訳しながら「はい、とても楽しかったです!」と口に出してみたり。ちゃんと狙ってボールを投げていらした事がよくわかりました。ちなみにインタビューの本文中では月刊連載だったとおっしゃっているんですが、これは1988年11月掲載の第1話から1989年3月掲載の第5話までの5ヶ月間の事で、単行本後半の第6話~第9話はそうではなかったのでした(細かすぎるツッコミ)。
▲ to contents
□ Paragraphe10:
【Q:あなたの絵は「古典的な文化」と「大衆的な文化」のミッシングリンクで形作られているように思える。様々な形式のアートの境界を壊していこうとする欲求があるのだろうか?】
・私にとっては、それらは壁によって隔てられたものではない。
・私はそれら全てを栄養として、身につけてきた。
・自分のスタイルは、それらを生来のやり方で混ぜ合わせる事によってつくりあげたものだ。
10段落目。ここは、インタビュアー氏と先生の「絵」についての考え方がくっきりと分かれているような感じで、面白かったです。そこに「壁」があるのかどうか。先生の回答、ちゃんと先方に伝わっているでしょうか。ちなみにインタビュー氏が様々なアートの形式として言及しているのは、水墨画、西洋の版画、アールヌーヴォー、フランク・フラゼッタやリチャード・コーベン、あるいはボリス・バレフォのようなイラスト、というあたり。フランスの方が先生の絵を見た際に想起するアート分類が例示されているようで、興味深いです。
▲ to contents
□ Paragraphe11:
【Q:当時の日本では知名度が低かったフラゼッタやコーベンといったイラストレーターの仕事に、どうやってアクセスしたのか?】
・ある裕福な友人が、彼らの作品の入った短編小説集をたくさん所蔵していた。
・彼の家で自由にそれらを読ませてもらう事ができた。
・それらは私をわくわくさせた。その全てが刺激的だった。
・その頃、コピー機はなかったので、見たものを記憶にとどめるしか選択の余地はなかった。
・あの絵描きたちは、私にたくさんの影響を与えている。
11段落目もやや短め。70~80年代に、どうやってフランク・フラゼッタやリチャード・コ-ベンなどの作品にアクセスしたか?というもの。時代性の記録という意味で、これも有意義な質問ですね。
▲ to contents
□ Paragraphe12:
【Q:あなたは1991年から「ロードス島戦記 ファリスの聖女」を描いた。この漫画の企画はどのように生まれたのか?】
・1990年頃、雑誌「コンプティーク」の編集者から最初に提案を受けた。
・その頃すでに(「ロードス島戦記」はアニメ化され)OVAは発売されていた。
・ひとつの手掛かりとなったのは、(小説で)最初に語られたベルドとファーンの六英雄ふたりの対立だった。
・最終的に、魔神王との戦いに向かう六英雄の旅路に焦点を当てる事を水野さんが望んだ。
・なぜなら、その物語は(小説の)本編に干渉する恐れがなかったから。
・そんなわけで、非常に自由に(私が)脚色する事を提案された。
12段落目は今回のインタビューの本題「ファリスの聖女」関連で、その企画のはじまりを問うもの。「コンプティークの編集さんから最初に提案があった」となっているのが目を引きます。「ロードス島戦記」のPCエンジンでのゲーム展開に合わせて「マル勝PCエンジン」ではじまった連載でしたが、最終的に単行本の完全版が「コンプティーク」編集部から出たのは、そういう機縁だったんでしょうか。なお、本文中では、水野良先生の表記が「Mizuno-san」となっているところも興味深いです。もちろん先生がそうおっしゃったんでしょうけど、特に"-san"についての注釈がないあたり、さすがはマンガカルチャー誌と言えましょう。
▲ to contents
□ Paragraphe13:
【Q:原作付の仕事をする時、あなたは自分の想像力を奮い立たせるのか、それともシナリオに忠実に描こうとするのか?】
・「ファリスの聖女」は、自分にとって唯一の原作つきの漫画作品だった。
・水野良は、どちらかと言うと、私の望むままにさせておいてくれた。
・「ロードス島戦記」は、もともと(TRPGの)「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を元にしたものが、ゲームマスターの水野氏によって「コンプティーク」誌上で叙述されたものだった。
・それゆえに、漫画版も元のゲームのルールを尊重している。例えば魔法の作用や、さまざまなモンスターのレベルなど。
・水野氏から提示されたものは、A4判の2枚の紙がすべてだった。
・そこには、最初の4ページの展開と、鏡の森の戦い、そして最も深き迷宮に至る通路について叙述されていた。
・私は白い地図の空白を、自分のやり方で埋めていく事になった。
13段落目では、「ファリスの聖女」でのお仕事の様子が、かなり赤裸々に語られていますね。たぶんこれまで知られていなかった情報も含まれています。先生はものすごく大変だったと思いますが、その苦難の道行きが歳月を経て結晶したと思しき、この段落の最後の一文。フランス語で読むと、実に詩的で美しいです。
曰く、"J'avais carte blanche pour combler les trous à ma guise."。
▲ to contents
□ Paragraphe14:
【Q:「ファリスの聖女」でのあなたの筆致は、しばしばアメリカのアーティストの作品を連想させる。この作品は、「漫画」と「アメコミ」の≪混血≫として構想したのか?】
・この作品の作業をはじめた時、10巻以上に(物語が)広がってしまう危険性があるのを感じた。
・このため、私が通常考える「漫画」とは、違うものにする事を選んだ。
・しかし「ファリスの聖女」は(一般的な読者を対象にした)月刊誌での連載だった。
・あまりに実験的なコマ割をして、読者がわけがわからないという事にならないようにしなければならない。
・そこで、コマの中の情報量の密度を高める事に決めた。
・だが、そのために読むのに骨の折れるような作品になってもいけない。
・一般的な読者を魅了するためには、うまくやる必要があった。
・私は、フランスのバンドデシネに、そのヒントを得た。
・このアプローチは、その頃の日本の読者を当惑させた。
・しかし、このような規模の大きな物語を叙述するためは、それが私にとって唯一のやり方だった。
・より古典的な(漫画の)叙述方法を採用していたら、私は今なおこの作品を描き続けていただろう。
・「ファリスの聖女」の仕事をしていた頃、並行して「マーメノイド」のキャラクターデザインも構想していた。
・「マーメノイド」の(CG)動画は、フランスのスタジオで製作された。
・その要素は、きっとあなたの国の人々に喜んでもらえると思う。
14段落目は少し長め。「ファリスの聖女」についてのもう少し突っ込んだ話で、フランスのバンドデシネの手法を採用した事とその理由について。こうしないとこの作品をまだ描いてただろうとの事で、そうなんですねえ(^^;)実際、翻訳版が真っ先に出たのがフランス。そしてもっともたくさんのバージョンで繰り返し出版されているのもフランスなので、やはり「ファリス」はBD的なものとして、あちらの読者には受け入れやすい作品なんでしょうね。
▲ to contents
□ Paragraphe15:
【Q:バンドデシネの作家たちの中で、あなたが特に高く評価しているのは誰?】
・答えにくい。とても…
・あえて言えば、(その頃)日本で本を見つけやすかった作家の中では、エンキ・ビラルの諸作品だろうか。
・今では、様々な作家の(BDの)作品をたくさん楽しめるようになったけれど。
15段落目は、前段を受けて、お好きなバンドデシネ作家についての質問。それは確かに知りたいところですよね。答えにくいと言いつつ、でも一人はお名前を挙げていただけていました(^^)/
▲ to contents
□ Paragraphe16:
【Q:2024年の読売新聞のインタビューで、あなたは「絵はBGMのように頭の片隅に流れていればいいかな」と答えているが、あまりにも謙虚すぎるのではないだろうか? 一部の小説作品では、物語とあなたの絵はほとんど不可分のものになっている。】
・まず第一に、仕事に入る前に作家に会うことは、ほとんどしない。
・小野不由美のシリーズの場合も、作家からの注文はまったくない。
・理由は、本文を大切にしたいから。
・私は、小説家の意図を知らない方を好む。
・描きはじめる前に物語が書かれた目的を知っていると、(イラストが)読者が本文を読んで生み出す可能性のある印象とは、結果的に異なったものになってしまうと思う。
・挿絵画家である限り、私はその作品の最初の読者であり、それがなんであれ(他の読者の)認識に混乱を生じさせる事を望まない。
・ところでイラストは、我々が物語を理解する際にとても影響するものだ。
・私は(私の絵が)読者の想像力に影響を及ぼす事を、できるだけ避けられるように願う。
・できることなら登場人物は表現せず、もっぱら情景を描く事に専念したい。
・しかしそれでは、挿絵画家としての任務を怠っている事になってしまう。
・何人かの作家たちは、登場人物の身体的な外見を詳細に提示する。
・他の何人かの作家たちは、(登場人物の)内面的な描写しか描き出さない。
・私は、本文に明示されている事に忠実でありたい。
・作家と読者の間で、私はどちらかといえば後者(読者)の方だ。
・しかしながら、私の挿絵が必然的に読者の心の中の印象を形成する事は、ある程度は承知している。
・私の仕事は、本文から人々が引き出す事のできる多様な印象を、連想できるようにする事だ。
・(それがうまくいっているのであれば)私の絵は、きっともっとも適切に表現できている。
16段目は小説の「挿絵」の描き方についての問い掛け。先生の解答が観念的なこともあって、やや難解でなかなか読み進められませんでした。実はここだけで読み進めるのに10日ほどかかってしまった(^^;)まとめて眺めてみれば、このあたりはまあいつもと同じような事をおっしゃっているわけですが、ビジュアル的な想像力の貧困な自分などから言わせてもらうと、「先生は読者のそういう能力への信頼感が強すぎる!」と、思えなくもなく。。。「いちばんいい場面はあなたのイメージで」と言われても、実際のところ「浮かばない」んですよ。ほんとに。文章読んで、頭の中にイメージが浮かぶ人が羨ましいですよねえ。とほほ。
▲ to contents
□ Paragraphe17:
【Q:作家たちとはお互いの仕事に影響を与えあうものか?それとも、小説家と挿絵画家という役割の関係に留まるものか?】
・共同で仕事をする多くの作家との間で、私は共感(シンパシー)によるつながりを結んでいる。
・人間だからね。あなただってそうじゃない?
・でも、私たちは会わない。
・徹夜でお店で話したような事は、一度もない。
・友人(の作家)たちの仕事に挿絵を入れる機会がある時、私は彼らの意図について質問しないように気を配る。
・あるいは、私の仕事に影響を与えるような情報を、彼ら(作家たち)から手に入れないようにする。
・とりわけ小説の仕事をする際に、私は自分が楽しんでしまう事を禁じている。
・というのは、読者はかならずそれを感じ取ってしまうから。
・私は、できるだけ中立でありたい。様々な注文に、同じぐらい敬意をもちたい。
・これこれこういうテキスト(文章)というものについて、お気に入りがないわけじゃないんだ。
・この仕事をしようと思ったのは、本が好きだったからでもある。
・しかし私の個人的な好みは、自分の胸にしまっておくようにしている。
・私は、私が挿絵の仕事を手掛ける全ての作家を、同じように尊敬している。
17段落目は「挿絵」の話の続き。作家(小説家)との親交から生成されるものはあるか?という問い掛けなのだけれど、こちらも実にストイックな回答。ここには「職人としての挿絵画家」はいかにあるべきか?という先生の哲学が凝縮されているように思われます。ぐっとくる文章に、自分の気分を重ねるように、心地よく絵筆を走らせるような仕事はしない。というのは、しかし挿絵画家にファンが求めるものとはおそらく真逆なんだよな……と、素人目には思えてしまいますけれど(^^;)ちなみにこの段落では、途中に挟まれた「C'est humain」という科白がお気に入り。関西弁だと、たぶん「人間やからね」といった感じですかね。ストイックな人物から、そこはかとなく醸し出される人間味というのは、なかなかよいものです(^^;)
▲ to contents
□ Paragraphe18:
【Q:あなたは漫画、ゲーム、映画、小説など様々なジャンルで描く仕事をこなしてきたが、まだやっていない領域はあるか?また、今後やりたいと思うものはあるか?】
・キャリアの最初の頃、できるだけたくさんの事業(サービス)に自分の絵が置かれる事を望んだ。
・何年もの間に、多くの種類の企画に参加した。
・しかし、おそらくまだ自分が知らない分野のメディアも存在する。
・もし誰かが申し出てくれる可能性があるなら、新しい事を試せるのはとても嬉しい。
・本当のことを言うと「漫画」に戻ってきたい。
・一種の芸術的な"聖書"として構成された、大きな物語を発表したい。
・しかし、自分の年齢や、イラストの注文の数、受け続けているアニメーションやテレビゲーム(の仕事)から考えて、この仕事は未完成に終わってしまうのではないかと恐れている。
・今のところは、進行中の企画に集中する事になっている。
・そして、人々の目に、私の仕事がそれとわかる水準の品質を維持していく。
最後の18段落目。インタビュアー氏の問いの意図とはちょっと違ってる気がしますが、今後の予定みたいなものが語られています。いま受けている注文数と自分の年齢を考えると……と、さすがにちょっと弱気な先生。なんとか新作漫画の片鱗だけでも発表していただきたいものですが、果たして果たして…
▲ to contents